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もともとはファッション・モデルとして、19歳から仕事を始めていた。ウェストチェスターからニューヨークに移ってからは、モデル業と併行して、ダンサーを目指してレッスンを重ねていた。
モデルの仕事を始めて約半年後、ポールはキャリアアップのため、ヨーロッパへと渡った。イタリア滞在時、空き時間にクラブで踊っていた彼を見初めた、プロデューサーのロベルト・トゥラッティとミキ・チエレガトによって、ポールはシンガーとしてスカウトされた。
彼らの用意した「Boom Boom」を、ポールは試験的にレコーディング。ポールのヴォーカルを気に入ったトゥラッティとチエレガトは、ポールがプロモーションのためにイタリアに8ヶ月滞在することを条件に、ZYXレコードとの契約を持ちかけてきた。アメリカ人のポールには、これは決して有利な条件ではなかったが、この条件を呑まなければ契約の話は無しだといわれた彼は、この条件を受け入れた。かくして「Boom Boom」はリリースされ、'87年に全英で最高70位、本国アメリカでは最高43位を記録するメジャー・ヒットとなった。日本の洋楽チャートでも大きなヒットとなり、当時の女性アイドル、勇直子が「Boom Boom Boom」のタイトルでカヴァー・ヴァージョンを発売したりもした(プロデュースは角松敏生)。
"Boom Boom (Let's go back to my room)"
BOOM BOOM
(1986)
当時のポールにはマネージャーがいなかった。不利な条件で契約を交わしたため、ポールはヨーロッパでのプロモーションを一人でこなさなければならなかった。アメリカに戻り、もっと条件の良いレーベルと契約しようとするポールに、ZYXは、他レーベルからの「Boom Boom」のリリースを許そうとはしなかった。そして、「Boom Boom」よりもさらに性的に露骨な「Meet My Friend Dick」なるタイトルの曲を、ポールに歌わせようとした。ポールはこれを拒否。彼らの争いは法廷にまで持ち込まれ、ポールがようやくZYXとの契約を解消できたのは、1990年。「Boom Boom」のリリースから実に4年という時間が経過していた。
ポールは、マドンナの所属レーベルだったサイアー・レコードと契約。プロデューサーには、当時マドンナの一連のヒット曲のリミックスを手がけていた、シェップ・ペティボーンが起用された。シェップはポールのヨーロッパ時代からの友人だった。「Boom Boom」のヒットから4年、ようやくポールは、1st アルバム『Tattoo It』をリリースした。
『Tattoo It』のプロモーションは、ゲイ・クラブを中心にして行なわれた。ポールは、全米のさまざまなゲイ・クラブをツアーして廻った。このアルバムからは、「My House」「You Blow Me Away」「Tattoo It On Me」などがシングル・カットされた。
"My House"
(1990)
しかし、ポールはこの『Tattoo It』1作のみで、サイアーから解雇されてしまう。彼の名前は、ポップスのメインストリームからは消えてしまった。
実はポールは、ZYXと争っていた最中の1988年に、HIV陽性であることが判明していた。ツアーでアメリカを廻っているあいだに体調が悪化し、不安を煽られた彼は、その精神と生活を荒ませていった。エイズへの誤解と偏見からか、サイアーから解雇されたポールと新しく契約しようというレコード会社は見つからなかった。ついにポールはドラッグに溺れるようになってしまう。
しかし、そこから這い上がるべく、彼は長い年月をかけて、ドラッグを克服。クリーンになったポールは、2001年、ゲイのクラブ・シーンを描いたインディペンデント映画『Circuit』への出演をオーディションで勝ち取り、俳優として復帰した。また、この映画のサウンドトラックに、ポールは新曲「Assume The Position」を提供している。
2005年には、これもやはりゲイを題材とした映画『Sex,Politics & Cocktails』に出演。さらにはポール自身が脚本・監督・主演を務めた短編映画『Don't Tell Don't Ask』が、全米各地のゲイ&レズビアン映画祭で公開されるなど、現在は俳優業にも力を入れている。しかし、活動の中心はあくまでも音楽。ここ数年は、さまざまなゲイ・プライド・イヴェントに毎年出演して、パワフルなライヴ・パフォーマンスを披露している。『Tattoo It』に続くニュー・アルバムの発売を期待したい。
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